『エリン・ブロコビッチ』
2003年2月28日ソダーバーグの映画はオーソドックスな構成で連なる一つ一つの場面を丁寧に仕上げた、「王道」のような作品だ。良い悪いはともかくとして、日本人ウケするのだろう。実際、見ていて面白い。ヴェンダースはそれに対して、日本人のウケは悪い。彼は明らかにヨーロッパ向けの監督だ。
数式の答えを求めるのがソダーバーグの映画なら、ヴェンダースのそれは数式そのものを映し出しているかのようだ。
数式の答えを求めるのがソダーバーグの映画なら、ヴェンダースのそれは数式そのものを映し出しているかのようだ。
今日の日記
2003年2月25日死ぬことについては全く恐怖を感じない。
誰かに背中を押されれば、僕は抗わずに倒れるだろう。
でもその間際に感じるであろう痛みには激しい恐れを覚える。
痛みや苦しみは、できることならば避けたい。
人間の最期が耐え難い苦痛とともにもたらされるなんて。
満たされ、安らぎに包まれながら終えることができるのなら、どれほど良いだろう。
結局僕は、臆病なだけなのかも知れない。
人間は静かに眠るべきだ。
風の音や、虫の音や、雨音や、潮騒や、
人の囁き、微かな足音、どこかで響く遠吠え、
夜の薄闇と、月の明かりと…。
そういうもののうちに、人間は眠るべきだ。
どうかお願いだから
騒々しい喧騒の中に、
僕を葬らないでくれ。
誰かに背中を押されれば、僕は抗わずに倒れるだろう。
でもその間際に感じるであろう痛みには激しい恐れを覚える。
痛みや苦しみは、できることならば避けたい。
人間の最期が耐え難い苦痛とともにもたらされるなんて。
満たされ、安らぎに包まれながら終えることができるのなら、どれほど良いだろう。
結局僕は、臆病なだけなのかも知れない。
人間は静かに眠るべきだ。
風の音や、虫の音や、雨音や、潮騒や、
人の囁き、微かな足音、どこかで響く遠吠え、
夜の薄闇と、月の明かりと…。
そういうもののうちに、人間は眠るべきだ。
どうかお願いだから
騒々しい喧騒の中に、
僕を葬らないでくれ。
冬眠
2003年2月24日みたいなこの暮らし
なんだ俺は
なんだお前は
もういい見るな
寄るな触るな
俺は寝る
外は寒いし
誰もいないし
俺のことは
もう死んだと思ってくれ
実際見ても
死んでるのと変わんないから
けどそれって
仮死状態ってやつで
うっかり燃やしたりすんなよ
もしかしたらそのまま
もう起きないかも知れないけど
でも多分生きてるから
うっかり埋めたりすんなよ
多分また
生き返るんだから
なんだ俺は
なんだお前は
もういい見るな
寄るな触るな
俺は寝る
外は寒いし
誰もいないし
俺のことは
もう死んだと思ってくれ
実際見ても
死んでるのと変わんないから
けどそれって
仮死状態ってやつで
うっかり燃やしたりすんなよ
もしかしたらそのまま
もう起きないかも知れないけど
でも多分生きてるから
うっかり埋めたりすんなよ
多分また
生き返るんだから
祭りのあと
2003年2月23日公演が終わるとさっぱりと人との関わりがなくなる。どこか別の世界へでも来てしまったかのように。
J・マキナニーの『モデル・ビヘイヴィア』を先日読了した。マキナニーは僕の好きな作家の一人だが、この小説は途中までちょっと好きになれなかった。少しミーハーな感じがしたから。でも最後の一行で全てを完結させる彼の力量はやっぱり流石だ。素晴らしいと言ってもいい。
『銭金』というバラエティ番組がある。これは貧乏人を皆で笑ってやろうという番組なのだが、これに俳優志望とか劇団がらみの人間がよく出る。でも軒並み言えることは、彼らは全然貧乏ではないということだ。貧乏というよりも、働かない人々と言った方がいい。好きで働かないのだから、他人の憐れみを受ける謂れは全くない。ああいう番組に出演してニヤニヤしている様は、情けないの一言しかない。表現者としての誇りは一体どこへ?本当に努力して、苦しんでいる人たちもいるというのに。こういう下らない番組を作るTV局や出演している方々に対して、怒りすら覚える。
−−−カッカするなよ、TVぐらいで。
それはそうだが、それで終わらせていいのか?
J・マキナニーの『モデル・ビヘイヴィア』を先日読了した。マキナニーは僕の好きな作家の一人だが、この小説は途中までちょっと好きになれなかった。少しミーハーな感じがしたから。でも最後の一行で全てを完結させる彼の力量はやっぱり流石だ。素晴らしいと言ってもいい。
『銭金』というバラエティ番組がある。これは貧乏人を皆で笑ってやろうという番組なのだが、これに俳優志望とか劇団がらみの人間がよく出る。でも軒並み言えることは、彼らは全然貧乏ではないということだ。貧乏というよりも、働かない人々と言った方がいい。好きで働かないのだから、他人の憐れみを受ける謂れは全くない。ああいう番組に出演してニヤニヤしている様は、情けないの一言しかない。表現者としての誇りは一体どこへ?本当に努力して、苦しんでいる人たちもいるというのに。こういう下らない番組を作るTV局や出演している方々に対して、怒りすら覚える。
−−−カッカするなよ、TVぐらいで。
それはそうだが、それで終わらせていいのか?
母の眠り
2003年2月10日 『母の眠り』読了。
「尊厳死」や家族の葛藤など、社会問題と個人のパーソナリティに帰属するテーマを重層的に描き出した秀作。ジャーナリストでもあるアナ・クィンドレンの力強い筆致に冒頭から結末まで見事に引き込まれた。
「尊厳死」や家族の葛藤など、社会問題と個人のパーソナリティに帰属するテーマを重層的に描き出した秀作。ジャーナリストでもあるアナ・クィンドレンの力強い筆致に冒頭から結末まで見事に引き込まれた。
町田にて
2003年2月9日 午前中、久し振りの稽古。役者たちは軽目に体を動かし、その後はミーティング。今後について話し合う。
午後、町田で元劇団員の高橋と昼食を共にする。彼女の将来の夢や、今考えていることなど、色々聞かせてもらった。
夜、『マイ・プライベート・アイダホ』を見る。初めて見たガス・ヴァン・サントの作品は『グッド・ウィル・ハンティング』だったので、もっと彼は正統派の監督なのかと思っていた。ところがこの『マイ・プライベート・アイダホ』は所謂ビートニク系と言われてしまう映画だ。幼い頃に生き別れた母親を探しアイダホ、ポートランド、ローマと渡り歩く発作性睡眠症の若者、マイク(リバー・フェニックス)。彼の発作が現れる度に場面は切り替わり、荒んだ救いようのない男娼やジャンキーたちの社会をユーモアを交えながら描いている。
午後、町田で元劇団員の高橋と昼食を共にする。彼女の将来の夢や、今考えていることなど、色々聞かせてもらった。
夜、『マイ・プライベート・アイダホ』を見る。初めて見たガス・ヴァン・サントの作品は『グッド・ウィル・ハンティング』だったので、もっと彼は正統派の監督なのかと思っていた。ところがこの『マイ・プライベート・アイダホ』は所謂ビートニク系と言われてしまう映画だ。幼い頃に生き別れた母親を探しアイダホ、ポートランド、ローマと渡り歩く発作性睡眠症の若者、マイク(リバー・フェニックス)。彼の発作が現れる度に場面は切り替わり、荒んだ救いようのない男娼やジャンキーたちの社会をユーモアを交えながら描いている。
丘の上
2003年2月8日少女が立っている丘の上からは
世界のあらゆることが見渡せる
よいことも わるいことも
ウソも ホントも
きれいなものも きたないものも
少女は眠ることなく見つめている
その目は石のように冷たく
もはや微塵の輝きも宿していない
日の暮れる前に帰らなければ
闇のために道を失うと知りながら
少女は一歩も動けない
夜が彼女をさらう
朝が来る頃にはもう
丘の上には誰もいない
そしてどこかの少女がまた
何も知らずに丘を登り始める
その目の美しさを語るには
世界はあまりにもふさわしくない
世界のあらゆることが見渡せる
よいことも わるいことも
ウソも ホントも
きれいなものも きたないものも
少女は眠ることなく見つめている
その目は石のように冷たく
もはや微塵の輝きも宿していない
日の暮れる前に帰らなければ
闇のために道を失うと知りながら
少女は一歩も動けない
夜が彼女をさらう
朝が来る頃にはもう
丘の上には誰もいない
そしてどこかの少女がまた
何も知らずに丘を登り始める
その目の美しさを語るには
世界はあまりにもふさわしくない
否定、怒り、そして諦め
2003年2月7日 一昨年購入したSOTECのパソコンが先月故障した。モニタの画面が乱れ、正常に表示されない。わずか1年半の使用で修理に出し、9万5千円近くの費用がかかった。故障の原因はビデオカードとDVD-DRIVEの不具合だという。どうにも理解できないのは、購入後2〜3回しか使用していないDVD-DRIVEが何故故障するのかということ。その交換で約65,000円かかっている。サポートセンターの対応にも疑問が残った。故障の詳しい状況について尋ねると、「私は工場の者ではないので分かりません」などと答える。それでは何の為のサポートセンターなのか。電話はなかなかつながらず、ある日には何故かFAXが不通になっていて、おまけに修理の見積りはいつまでたっても上がって来ず、こちらから催促する始末。ある家電量販店の元店長の方に聞いたところ、SOTECの返品率は他のメーカーに比べて圧倒的に高いらしい。現在は一時期に比べると落ち着いてきたものの、何軒の家に謝りに行ったか分からないと言っていた。10万円を切る価格で一躍大手メーカーに成り上がったSOTECだが、製品の質はもとより、ユーザーに対して誠実な対応ができないようならば、いずれは「安かろう悪かろう」のレッテルとともに顧客の信頼を失うのは自明だ。
ところで、今読んでいるアナ・クィンドレン著『母の眠り(ONE TRUE THING)』(森洋子訳/新潮社)の中の一節。看護婦のテレサ・ゲレーロが癌に冒されたケイトの娘、エレンにこう語りかける。
『人が死に至る病を宣告された場合、その精神状態にはいくつかの段階があると教えられたわ。否定、怒り、最後に行き着くのが諦め』
これは何も病を宣告された者だけに言えることではないかも知れない。人は死を意識されられた時、同じようにこれらの感情を抱く。例えば、家族を戦争や事故で失った遺族は?もう先は長くないと気づいてしまった初老の男たち。鏡の前で自分の美しさの衰えに抵抗しようとしている女たち。今の自分が理想の自分と大きくかけ離れてしまっているとしたら?そしてそのギャップを埋めるのに、残された時間では到底足りないと気づいてしまったら?アウシュビッツに収容されていた彼らとて同じだろう。しかし最終的には、誰もが諦めなければならない。人間は片手に希望を、もう片方の手には諦めを携えて生きていかなければならない。そして最期の最期には、片手の希望を手放し、両手に諦めを抱えて眠ってしまうのだ。
ところで、今読んでいるアナ・クィンドレン著『母の眠り(ONE TRUE THING)』(森洋子訳/新潮社)の中の一節。看護婦のテレサ・ゲレーロが癌に冒されたケイトの娘、エレンにこう語りかける。
『人が死に至る病を宣告された場合、その精神状態にはいくつかの段階があると教えられたわ。否定、怒り、最後に行き着くのが諦め』
これは何も病を宣告された者だけに言えることではないかも知れない。人は死を意識されられた時、同じようにこれらの感情を抱く。例えば、家族を戦争や事故で失った遺族は?もう先は長くないと気づいてしまった初老の男たち。鏡の前で自分の美しさの衰えに抵抗しようとしている女たち。今の自分が理想の自分と大きくかけ離れてしまっているとしたら?そしてそのギャップを埋めるのに、残された時間では到底足りないと気づいてしまったら?アウシュビッツに収容されていた彼らとて同じだろう。しかし最終的には、誰もが諦めなければならない。人間は片手に希望を、もう片方の手には諦めを携えて生きていかなければならない。そして最期の最期には、片手の希望を手放し、両手に諦めを抱えて眠ってしまうのだ。
残された者
2003年2月6日 昨日に引き続き、プリーモ・レーヴィのドキュメンタリーを見る。自分よりも生きるに値する人間がもっと他にいたはずだと己を責めるレーヴィ。残された者の悲しさが、そこにはある。誰もが彼の話しに耳を傾けようとしない社会。レーヴィは核の抑止力に対しても否定的だった。『恐怖からは何も生まれない』と彼は言った。東西冷戦は解消されたが、それは平和を意味するものではない。アメリカの敵が中東や朝鮮、テロリストたちに取って代わっただけのことだ。我々人間は共存や平和についてほとんど何も知りはしない。思いやりやコミュニケーションが欠如した人間関係と国家のそれは、同質のもののように思える。闘争は途絶えることなく、やがてアウシュビッツの地獄が繰り返される。レーヴィが抱いた恐れと絶望、その苦悶に耳を貸すものはいなかった。自宅アパートのエレベーターホールに身を投じる瞬間、レーヴィは何を思ったのだろう。己の死が、人間たちへの何らかの警告となればいいと思ったのか。それはかつて三島が身を賭した『英雄的な死』とは意味が違う。勇ましさを帯びた三島のそれに対し、レーヴィの死には行き場のない悲しみが込められているように感じる。我々は彼をこの世界に引き戻すことはできない。彼は言った。『最良の者たちは、皆死んでしまった。』そして彼もまた、自らの意思で同じ道を辿った。残された我々は、何も知らない子供のように、この世界で享楽を求め続けている。その姿をどのような面持ちで正視すればよいのか。殺し合いと、平和と、豊かさと、貧困と、愛されるものと、憎まれるものと。
レーヴィは死んでしまった。
解放されてもなお、彼の魂が癒されることはなかった。
そして今や我々こそが、残された者になってしまったのだ。
レーヴィは死んでしまった。
解放されてもなお、彼の魂が癒されることはなかった。
そして今や我々こそが、残された者になってしまったのだ。
そばうどん
2003年2月5日 長津田で電車を待っている時、5分ほど待ち時間があったのでホームにある蕎麦屋に入った。店内では数人の客が背中を丸めて蕎麦を啜り、厨房の中ではおばさん2人がぺらぺらと陽気におしゃべりしている。食券を差し出して「うどん」と注文する。待つこと1分。出てきたのは何故か「そば」だった。おばさんたちは間違いにも気づかずまだぺらぺらとおしゃべりしている。その勢いは、まるで何年か振りに再会した旧友のようにとどまるところを知らない。僕は何も言わずに「そば」を食った。
夜、戦時中アウシュビッツに収容されていたユダヤ系イタリア人作家、プリーモ・レーヴィについてのドキュメンタリーを見る。
それから少し本を読み(『母の眠り』/アナ・クィンドレン)、眠った。
夜、戦時中アウシュビッツに収容されていたユダヤ系イタリア人作家、プリーモ・レーヴィについてのドキュメンタリーを見る。
それから少し本を読み(『母の眠り』/アナ・クィンドレン)、眠った。
江田にて
2003年2月4日 見学希望のAさんとお会いする。関西出身という彼女は気さくで明るい印象。ノーサイドのスタイルや現状、また彼女が目指すものなど色々とお話しさせていただく。その後、淵野辺で劇団員とミーティング。次回公演についてなど。時期は秋ごろになりそう。この1年ほど慌しいスケジュールが続いていたということもあり、今回は少し長めにスパンを取って作りたい。勿論、それだけ内容の質を上げられると思う。
四谷にて
2003年2月2日劇団を始めて間もない頃からお付き合いのある新聞記者の和田さんが、四谷で写真展を開くということでギャラリーに行く。地下鉄を乗り継いで四谷三丁目で降り、五分ほど歩くと小さな路地のとんかつ屋の2階に、「Place-M」はあった。小劇場のロビーのような小さなその空間は、2階にあるのに何故か地下のような雰囲気を醸し出していて、不思議と落ち着いた。個展のタイトルは『路上』。和田さんが日頃から街で撮影してきた人々の写真が、十数点展示されている。それらはどことなく寂しげで、もの悲しく、それでいて人間の温かみが微かに漂っているようで、その世界にしばし浸る。その後、近況や表現についてなど色々とお話しさせていただいた。『ダイアリー』後、この1週間僕は自分の創作から離れてひたすら部屋を掃除していた。少しずつまた自分の中に生まれかけている創作への意欲に、和田さんの写真は良い刺激を与えてくれた。写真と演劇、小説、映画、絵画、様々な表現が持つ特性について考え、それぞれに携わる表現者たちの特質について考えた。演劇の世界には、非常に利己的な動機で表現に取り組んでいる人たちが大勢いる。その人たちについて不平を発するつもりはないが、自分自身について言えば、もっと誠実にものづくりに取り組まなければならないと改めて感じた。写真家たちの一瞬にかける真摯な姿勢から、演劇人は多くを学ぶべきだ。つまらない能書きは必要ない。舞台の上で表現すれば、それでいいのだから。
強さ
2002年12月10日結局は一人だという絶望に
あなたは何度も挫けながら
空が白むまでの長い夜を
どうしたものかと思案している
生と死と
たったそれだけの問いかけに
どれほど時間を費やしたのだろう
あなたの目はもう疲れてしまって
どこかに老いを宿している
この世界をあなたに伝えたいのに
臆病な僕のコトバは尻込みする
ウツクシイをあなたに伝えたいのに
僕の世界はそれを受け入れようとはしない
あなたは何度も挫けながら
空が白むまでの長い夜を
どうしたものかと思案している
生と死と
たったそれだけの問いかけに
どれほど時間を費やしたのだろう
あなたの目はもう疲れてしまって
どこかに老いを宿している
この世界をあなたに伝えたいのに
臆病な僕のコトバは尻込みする
ウツクシイをあなたに伝えたいのに
僕の世界はそれを受け入れようとはしない
不在届
2002年11月28日そこには誰もいない
闇のような静けさと
時々思い出したように
耳障りな音が響く
かつて手に入れたものの尊さを
自分の足で踏みつけ
台無しにしてしまう
そしてその代わりに得るものは
愚にもつかない卑しさと
つまらない感傷
そこには誰もいない
あらゆるものはそこには存在しない
ただ死が悠然と
待ち受けるように横たわるだけだ
闇のような静けさと
時々思い出したように
耳障りな音が響く
かつて手に入れたものの尊さを
自分の足で踏みつけ
台無しにしてしまう
そしてその代わりに得るものは
愚にもつかない卑しさと
つまらない感傷
そこには誰もいない
あらゆるものはそこには存在しない
ただ死が悠然と
待ち受けるように横たわるだけだ
今日の日記
2002年11月27日僕は子供の頃
「一生のお願い」を
何度繰り返したことだろう
どうしても欲しい物があると
いつも決まってそう言った
あんなオモチャのために
「一生のお願い」を
簡単に使ってしまうなんて
何と僕は子供だったんだろう
「一生のお願い」を
何度繰り返したことだろう
どうしても欲しい物があると
いつも決まってそう言った
あんなオモチャのために
「一生のお願い」を
簡単に使ってしまうなんて
何と僕は子供だったんだろう
雨と風と星と
2002年11月25日太陽系の中にも、ブラックホールがあるらしい。
ブラックホールの中心は無限大の質量だそうだ。
あまりにも大きな重力のために、そこからは光すらも抜け出ることができない。
そしてそこは同時に、別の宇宙へとつながる道かもしれないという。
僕らは何とエラい世界に生きているのか
日本という国で
地球という星で
太陽系という空で
銀河系という宇宙で
闇という世界で
そして
僕という人間は
雨は何故か懐かしい
その音か その冷たさか その暗さか
風が傘をさらおうとする
僕は建物の陰に隠れて
こっそりとにくまんを食う
それからコォーンポタァジュを飲む
擦り切れたジーンズと
ずぶ濡れのスニーカーと
くたびれたフランネルの上着と
ウインドウに映る光のない目と
消えたいと願う弱い心と
行き過ぎる人 人 人
掻き消しあう声 声 声
僕は喉元を守るように顎を引く
雨は何故か懐かしい
その音か その冷たさか その暗さか
そして
僕という人間は
ブラックホールの中心は無限大の質量だそうだ。
あまりにも大きな重力のために、そこからは光すらも抜け出ることができない。
そしてそこは同時に、別の宇宙へとつながる道かもしれないという。
僕らは何とエラい世界に生きているのか
日本という国で
地球という星で
太陽系という空で
銀河系という宇宙で
闇という世界で
そして
僕という人間は
雨は何故か懐かしい
その音か その冷たさか その暗さか
風が傘をさらおうとする
僕は建物の陰に隠れて
こっそりとにくまんを食う
それからコォーンポタァジュを飲む
擦り切れたジーンズと
ずぶ濡れのスニーカーと
くたびれたフランネルの上着と
ウインドウに映る光のない目と
消えたいと願う弱い心と
行き過ぎる人 人 人
掻き消しあう声 声 声
僕は喉元を守るように顎を引く
雨は何故か懐かしい
その音か その冷たさか その暗さか
そして
僕という人間は
阿佐ヶ谷にて
2002年11月24日暗黒銀河団の『男前』観劇。アルテ・パティオに行ったのは初めて。作品は面白かった。笑いとブラックがミックスされてるのが作・演出渋谷くんの個性かな。役者陣もいいメンバーが揃ってると思う。今後が楽しみですね。